量子ビームで「漆黒の闇」に潜む謎を解明―縄文から始まった"漆技術"を最先端活用へ―



漆黒。「闇」を表現する際にも用いられるこの言葉のように、黒漆[1]は非常に美しい黒色をしています。しかし、なぜ漆が黒色になるのか、黒漆の構造はどうなっているのか、その謎は現代でもほとんど解明されていません。
放射光[2]や中性子、X線は、物を透過する力を持つ「光(量子ビーム)」であり、それぞれ異なる性質を持っています。これらの特殊な能力を持つ量子ビームを駆使することで、可視光では透過できない漆のナノ構造を解明することに成功しました。その結果から、長年の謎であった黒漆の黒色の起源を明らかにしました。




本研究は、明治大学(学長 大六野耕作)理工学部応用化学科の神谷嘉美客員研究員、本多貴之准教授、国立研究開発法人日本原子力研究開発機構(理事長 小口正範)、企画調整室の南川卓也研究員、物質科学研究センターの関根由莉奈研究副主幹、松村大樹研究主幹、J-PARCセンターの廣井孝介研究副主幹、高田慎一研究副主幹の研究グループによるものです。


【発表のポイント】


●漆は縄文時代の遺跡から分解されずに出てくるほど高い安定性を持つ、古来のスーパー塗料です。日本の伝統工芸品として馴染みのある黒漆は、漆に鉄粉を添加することで美しく深い雅やかさがある黒色を帯びています。科学的には、鉄イオンの作用により塗膜が早く乾燥することが知られていましたが、有害物質の分解を早めるような触媒機能をもつことも最近分かってきました。


●しかし、安定でかつ可視光を吸収する黒色を持つ黒漆の分析は困難で、黒色ができるメカニズムや内部構造は現代でも謎のままでした。黒漆の謎を解明することは、歴史資料のさらなる解析や、漆を利用した新しい機能性材料の開発に役立ちます。


●物質を透過する力に優れかつ内部の極微量な成分を検出することが可能な放射光と中性子線を利用して、黒漆内部の鉄イオンや特殊なナノ構造を観ることに初めて成功しました。また、鉄イオンが漆の有機物成分であるウルシオールの構造化に作用して、ウルシオールの配列構造が美しい黒色を作り出していることを明らかにしました。


●今回初めて明らかになった結果から、漆に添加する金属イオン種や量を制御することで、古来の漆技術を最先端の触媒技術などに活かせる可能性が示唆されました。さらに、今回確立した分析手法を用いて歴史的資料の非破壊分析に役立てていく予定です。

【概要】

漆は、耐水性・耐薬品性に優れた稀有な天然塗料です。様々な日用品や装飾品の塗装に用いられてきました。近年では、漆を利用した新たな材料開発も注目されています。生漆に刀などから削り出したごく微量の鉄を加えると、非常に美しい漆黒が作り出されることが古くから知られています。しかし漆の構造や反応はほとんど解明されておらず、何故黒色になるかは現代でも明らかにされていません。

現代では様々な物質の構造が明らかにされ、物質の構造が変われば性質が大きく変化することが知られています。物質の持つ性質を最大限に引き出すには、その物質の構造を明らかにしたうえで、構造を制御することが必須です。また漆の構造が製法によって異なるなら、歴史遺産として知られている漆の作成法も調査できます。したがって、漆の構造を調べる手法の確立は漆の歴史遺産を調べる上でも重要です。

漆は0.3%以下の非常に低濃度の鉄を添加するだけで黒色になります。従来の分析方法ではこのような低濃度の鉄イオン[3]を安定的に検出することは困難でした。そこで、大型放射光施設SPring-8[4]や大強度陽子加速器施設J-PARC[5] といった世界最高レベルの実験施設を用いることで、漆内部の精密な測定を可能にしました。実験では黒漆中の鉄イオンの化学状態を放射光で決定しました。また、X線と中性子の特色を利用し、その透過率の差で漆の構造を観る手法を確立しました。これらの結果から、黒漆がなぜ黒くなるかの科学的メカニズムを初めて解明しました。

今後、本手法を基に今まで知られていない黒漆発祥の歴史を解明できる可能性があります。さらに、漆は石油由来素材よりも化学的に優れた特徴を持つため、次世代に向けた新たな機能性材料の開発にも本解析手法を役立てることも期待されます。

本成果は、国際学術誌「Langmuir」のオンライン公開版(2024年3月5日 日本時間0時)に掲載されました。


【これまでの背景・経緯】

漆の歴史は非常に古く、縄文時代から利用されていたことが知れています。生漆[6]は茶色の膜になりますが、黒色など様々な色の漆膜が作られてきました。中でも「漆黒」の美しい黒色を持った黒漆は、螺鈿の白や金箔の金等の色との明暗をつける効果により、非常に美しい芸術品を作る装飾塗料として古来利用されてきました。

漆を黒く着色する手法として、漆と鉄イオンとの化学反応や、カーボンブラックや松煙の添加など、いくつかの方法が知られています。中でも、漆と鉄イオンの化学反応で作る黒漆は、光沢があり非常に美しいため、最も広く用いられています。

生漆は、主成分のウルシオール[7](~65%、図1)と、水(~30%)から構成されています。鉄を添加すると、ウルシオールと反応すると考えられますが、何故黒色に変化するのかは現代でも謎です。黒漆に添加される鉄の量は非常に微量であり、通常の手法では可視光を通さない黒い漆の中の鉄の状態を解析することが困難です。そのうえ、硬化した漆は非常に安定であるため、分解等により詳細に構造を調べることも困難です。また、乾燥前の漆は「漆かぶれ」などの原因にもなり、取り扱いが難しいため漆の構造については現代でも謎が残ったままです。


【今回の成果】

本研究では、図2に示すような生漆膜と0.3 %の鉄を含む黒漆膜に対して、非破壊で透過性の高い放射光、X線、中性子線をあて、それぞれの量子ビームの特徴を活用して多角的に構造を観察しました。


まず黒漆膜に含まれるごく微量の鉄の化学状態を明らかにするために、SPring-8に設置されているビームラインで測定を行いました。なお、測定にはX線吸収端近傍構造(X-ray Aborption Near Edge Structure: XANES)法[8])及び広域X線吸収微細構造(Extended X-ray Absorption Fine Structure: EXAFS)法[9])を用いました。 X線を鉄イオンに当てて吸収の様子を測定することで、それぞれ鉄の価数及び鉄近傍の構造の測定を観察することができます。これらの方法により、漆膜中に微量に含まれる鉄イオンの状態を捉えることに成功しました。

黒漆中の鉄イオンのXANES及びEXAFS測定の結果を図3に示します。XANES法で得られたグラフ(図3左)を解析することにより、鉄イオンの価数がわかります。漆膜と0, 2, 3価の鉄と比較することにより、漆内の鉄イオンが全て3価である(Fe3+である)ことが分かりました。また、EXAFS法で得られたグラフ(図3右)を解析することにより、周辺分子との平均距離が分かります。解析の結果、Fe3+の周辺酸素原子との平均距離が1.5Å(オングストローム)5)及び2.2Åの場所に酸素原子との結合によるピークが観測され、鉄原子とウルシオールが化合物を形成していることが観測できました。


また生漆膜と黒漆膜のナノ構造の違いを調べるために、中性子小角散乱(Small Angle Neutron Scattering: SANS)法[10])とX線小角散乱(Small Angle X-ray Scattering: SAXS)法[11])を用いました。SANS 法及びSAXS法は、中性子またはX線を試料に照射して、ここから散乱する中性子線やX線の強度から物質のナノ構造を測定する手法です。今回中性子線とX線という性質の異なる2種類の量子ビームを利用しました。中性子線は通常の実験施設では利用できないため、J-PARCに設置されているビームラインでSANS測定を行いました。X線は元素に含まれる電子によって散乱されるのに対して、中性子線は元素に含まれる原子核によって散乱されます。そのため、X線および中性子線をそれぞれ漆膜に照射し、そこから散乱されたビームの強度比を解析することで、散乱に寄与したナノ構造の元素組成を分析することが可能です。本研究ではこのような原理を用いて、生漆膜および黒漆膜中に含まれるナノ構造の構成成分を調べました。


当初、生漆膜と黒漆膜のナノ構造はほぼ同様の組成なのではないかと予想していました。しかし、興味深いことに生漆膜は中性子よりもX線を非常に強く散乱しました。生漆膜と黒漆膜から散乱されたX線および中性子線の強度比(ISAXS/ISANS)を計算すると、表1のように生漆は黒漆より非常に大きな値となります。この結果は、生漆膜と黒漆膜に含まれるナノ構造の組成が全く異なることを示しています。これは初めての発見です。それぞれの膜でどのような成分がナノ構造を形成しているかを理論値をもとに計算した結果、生漆膜ではウルシオールのアルキル鎖[12]が配列していることが分かりました(図5(上))。一方で、黒漆膜では鉄イオンまたはウルシオールのベンゼン環の部位が配列していることが示唆されました(図5(下))。


以上のように、黒漆膜中の鉄イオンの化学状態やナノ構造の解析に成功しました。これらの結果より、黒漆が黒色をつくるメカニズムとして、以下の一つの仮説が示されました。生漆に鉄イオンが添加されると、ウルシオールのベンゼン環の部分が活性化され、そこの部分で反応が進みます。このような反応により、ベンゼン環[13]部位が連なっていきます。この部分が連なることで可視光が吸収されやすくなり、黒色になると考えられます。(図5(下))。

【今後の展望】

漆は実用性や装飾性に優れた塗料として古来利用されてきましたが、本研究により興味深い化学反応で形成され、さらに特殊なナノ構造を持つことが明らかになりました。性質の異なる量子ビームを利用することで、長年にわたって謎であった漆膜の構造解析が非破壊で測定可能であることが示されました。今後、本手法を歴史的な資料に適用することで、今まで明らかになっていなかった歴史の謎も解明できるかもしれません。また、漆の優れた物性がどのよう構造から発現しているのかを明らかにすることで、今後自然に優しい優れた次世代材料の開発が期待できます。

<付記>
・南川、関根(日本原子力研究開発機構):漆の分析及び構造を解析するための実験のデザイン
・南川、関根、松村、廣井、高田(日本原子力研究開発機構)、神谷、本多(明治大学):本研究にかかるデータの収集と実験データの解析
・南川、関根(日本原子力研究開発機構):黒漆の構造についての理論に基づいた説明
・神谷、本多(明治大学):本研究に関わる漆取り扱い手法に関する指導、歴史的背景の解説

本研究はJSPS科研費(「21K04949」、「20K20679」)、およびJAEA原科研ACCEL研究費の助成を受けたものです。

【論文情報】
○ 雑誌名:Langmuir
○ タイトル: Effects of Fe ions, UV irradiation, and heating on microscopic structures of black lacquer films
○ 著者名:Takuya Nankawa(1)*, Yurina Sekine(2)*, Daiju Matsumura(2), Kosuke Hiroi(2,3), Shin-ichi Takata(2,3), Yoshimi Kamiya(4), Takayuki Honda(4)
○ 所属:(1) 日本原子力研究開発機構 企画調整室、(2) 日本原子力研究開発機構 物質科学研究センター、(3) 日本原子力研究開発機構 J-PARCセンター、(4) 明治大学


【用語の説明】

[1] 黒漆
漆が鉄分によって黒化する性質を利用して作られた漆液、もしくは漆膜のことです。生漆の中に、古くはおはぐろ(鉄漿)や刀を研いだ鉄粉などを,現代では鉄の化合物等を混入して作っています。

[2] 放射光
放射光とは、電子を光とほぼ等しい速度まで加速し、電磁石によって進行方向を曲げた時に発生するX線。実験室レベルのX線に比べて12桁以上の強度を持つため微量成分も検出できる。

[3] 鉄イオン
鉄元素が酸化されてイオン化したもので、主に2価と3価が安定に存在します。鉄の場合3価の多くが黄色ですが、2価が混じると黒色(黒錆び:Fe3O4)が生成するなど、価数で性質が異なることが知られています。イオンの性質を知るには価数の情報を得ることが必須となります。

[4] SPring-8(大型放射光施設)
兵庫県の播磨科学公園都市にある世界最高性能の放射光を生み出す理化学研究所の施設で、SPring-8の名前はSuper Photon ring-8 GeV(ギガ電子ボルト)に由来します。SPring-8では、放射光を用いて、ナノテクノロジーやバイオテクノロジー、産業利用まで幅広い研究が行われています。

[5] J-PARC(大強度陽子加速器施設)
高エネルギー加速器研究機構(KEK)と日本原子力研究開発機構(JAEA)が茨城県東海村で共同運営している大型研究施設で、素粒子物理学・原子核物理学・物性物理学・化学・材料科学・生物学などの学術的な研究から産業分野への応用研究まで、広範囲の分野での世界最先端の研究が行われています。J-PARC内の物質・生命科学実験施設MLFでは、世界最高強度のミュオン及び中性子ビームを用いた研究が行われており、世界中から研究者が集まっています。

[6] 生漆
漆の木から出た液をろ過し、不純物を取り除いて均一にした漆液、もしくはそれを使った漆膜のことです。

[7] ウルシオール
ウルシ科の多くの植物に含まれる物質。漆の原料であり、触れると皮膚に発疹を生じ「漆かぶれ」の原因としても知られています。

[8] XANES法
入射する放射光のエネルギーを変えながら物質による吸光度を測定することで、対象の原子の化学状態を分析する手法。

[9] EXAFS法
入射する放射光のエネルギーを変えながら物質による吸光度を測定することで、対象の原子近傍の局所的な構造や化学状態を分析する手法。

[10] SANS法
中性子を物質に照射して散乱した中性子線のうち、散乱角が小さい領域のもので物質の構造を評価する手法。

[11] SAXS法
X線を物質に照射して散乱したX線のうち、散乱角が小さい領域のもので物質の構造を評価する手法。

[12] アルキル鎖
炭素と水素から成り、基本的に(CH2)nで表される鎖状の有機物質。

[13] ベンゼン環
炭素と水素から成り、C6H6で表される安定な環状の有機物質。





【リリース発信元】 大学プレスセンター https://www.u-presscenter.jp/

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明治大学
ホームページ
https://www.meiji.ac.jp/
代表者
上野 正雄
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非上場
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〒101-8301 東京都千代田区神田駿河台1-1

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