ヘンリー・ロイス卿(1863年~1933年):完璧さを追い求めて


2023年3月27日、グッドウッド、ウエスト・サセックス
  • ロールス・ロイスが共同創設者ヘンリー・ロイス卿の生誕160年を祝福
  • 彼の偉大な人生と仕事を振り返り、幼少期の貧困と度重なる逆境の中で培われた、追求をやめない性格と徹底された職業倫理を明らかにする
  • 完璧さの探求は、ロイスの仕事と私生活のあらゆる面に及んでいた
  • 「何事も完璧を目指せ。いまある最高のものを、さらにより良いものに」という彼の有名な格言は、今なお当社の活動を形作り、影響を与え続けている
「ヘンリー・ロイス卿は、技術革新と業績という並外れた遺産を世界に残しました。さらに、ロールス・ロイス・モーター・カーズの後継者である私たちに、『何事も完璧を目指せ。いまある最高のものを、さらにより良いもの』にという明確なメッセージを残しました。ヘンリー卿は、私生活と仕事のあらゆる面でこの格言を実践しました。生誕160年を迎えた今日もなお、彼の挑戦は、私たちのすべての行動を形作り、影響を与えています。完璧というのは流動的な目標であり、決して『完了』しないことを常に思い起こさせてくれるものです。完璧を追求する中で、改良、調整、再改変、再発明、もしくは革新できることが必ず何かあります。それこそが、ここでの生活と仕事をとても刺激的にしています。」
ロールス・ロイス・モーター・カーズ最高経営責任者 トルステン・ミュラー・エトヴェシュ

ヘンリー・ロイス卿の「何事も完璧を目指せ。いまある最高のものを、さらにより良いものに」という妥協のない命令は、自動車史上で最も有名な引用文のひとつです。これは、時代を超えて心に響く格言でもあり、今なお彼の名を冠した会社を形作り、影響を与えています。

ロールス・ロイスがヘンリー卿の生誕160年を祝うにあたり、彼の最も有名でよく繰り返される言葉の起源を探りながら、彼の偉大な人生とキャリアを振り返ります。生涯にわたる完璧さの追求の原動力は何であったのか、飽くなき改善と改良への絶え間ない願望が、仕事と私生活の両面でどのように発揮されたのでしょうか。

多くの改善すべき点
ロイスの幼少期は、苦難と貧困と不遇の連続でした。1863年に5人兄弟の末っ子として、危機的な経済状況の家庭に生まれました。製粉業者だった父親は、最後には破産宣告を受けたことで当時の法律の下で投獄され、彼を取り巻く状況はさらに大きく悪化しました。

このような見込みのない状況を背景にして、ロイスの人格が形成されました。それでも彼は、自分の人生をより良いものにしようと決意し、10歳のころには新聞売りとして、後に電報配達人としてロンドンで働いていました。

1879年、叔母の資金援助により、ピーターバラにあるグレート・ノーザン鉄道(GNR)の工場で念願の見習いとなり、事態は好転していくようでした。彼の本領はたちまち発揮され、デザインに関する天賦の才と、道具や素材を扱う生まれながらの能力が、すぐに発揮されます。彼の才能を示す初期の例のひとつに、真鍮で作った3個1組のミニチュア手押し車があります。これらの作品は、模範的水準ともいえる技量と、生涯を通じて抱き続けた卓越性への探求を明確に証明しています。

苦難
しかし、2年後、叔母が見習い費用を払えなくなると、自分を磨くロイスの努力は頓挫しました。それでも、ロイスは諦めずにロンドンに戻り、1881年、設立間もないElectric Lighting & Power Generating Company(EL&PG)で働き始めました。

伝統的な工学を捨てて電気学という新興分野を選んだのは、現実的な理由からでした。当時、電気学は生まれたばかりで、運営組織や専門機関がなかったため、合格すべき試験も到達すべき基準もありませんでした。そのため、工学とは異なり、ロイスにとって正式な資格を持たないことは、進歩の妨げになりませんでした。

電気学に魅了され、既に驚くほど高い職業倫理を身に付け、勉強に励んでいたことで(勤務後に英語と数学の夜間クラスを受講)、1882年、EL&PG(当時はMaxim-Weston Electric Companyと改称)からランカシャーの子会社に派遣され、リバプール市の街灯と劇場照明を担当する主任電気技師として働くことになりました。ところが、またもや彼は逆境にさらされます。会社が特許の取得をめぐる重大な不始末によって突然、管財人による管理下に置かれ、わずか19歳のロイスは再び無職になりました。

自立
かつての雇用主の親会社は、残った資産を売り払うよりも可能な限り回収することにしましたが、ロイスは、うんざりしていました。生来の行動力、明確な(計算された)リスク志向、そして同僚たちに注目された大きな自信に後押しされ、彼は独力でビジネスをスタートさせました。

1884年末、マンチェスターにF H Royce & Co(彼の洗礼名Frederick Henryに由来)を創設しました。当初は電池式ドアベルなどの小物を生産し、やがて天井クレーンや鉄道操車用キャプスタンなどの重機の製造へと発展していきました。

しかし、ビジネスが好調な傍ら、ロイス自身はそうではありませんでした。1901年には、長年の過労と張り詰めた家庭生活が、おそらく幼少期の困窮で根本的に弱っていた彼の健康に深刻な打撃を与えていました。

医者は、仕事場を離れて新鮮な空気を楽しむための手段として、ド・ディオン四輪車の購入を促しましたが、間もなくロイスは体調を崩しました。その主な要因は、会社が経営難に陥りつつあることへの懸念の増大でした。自分の父親の経験から、このことを彼は極めて重要な問題に受け止めていたのでしょう。

業績が下降したのは、ドイツやアメリカから安価な、少なくともロイス社の価格を下回る電気機械が流入してきたためでした。完璧主義者だったロイスは、低価格競争に加わること、あるいは製品の品質に妥協することに対応できませんでした。

彼には完全な休養が必要でした。結局、10週間の休暇を取るよう説得され、南アフリカの妻の実家を訪ねました。帰りの長い船旅で、「自動車-その構造と制御」を読みました。この本が、彼の人生を、ひいては世界を変えることになりました。

最高のものを、さらにより良いものに
英国に戻ったロイスは、心身ともにすっかり元気になり、すぐに最初の自動車として10H.P.ドコービルを手に入れました。会社の財務状況がまだ危うい中で、これは、貴重な資本を浪費する軽率な行動に思えました。しかし実際のところ、この買い物は、彼の頭の中で周到に計算されたものであり、会社の将来の繁栄の鍵を握るものでした。

よく知られている話は、この最初の車があまりに粗雑で信頼性が低かったため、ロイスはもっと良いものができると確信した、というものです。しかし、実際、ゼロから自分の車を作ろうと彼に決意させたのは、休暇中の読書でした。彼は既に、電気自動車の「プリチェット&ゴールド(Pritchett and Gold)」用に少量の電気モーターを供給していました。つまり、ドコービルを選んだのは、まさにそれが入手可能な最良の車で、それを解体した後で、彼の最も有名な言葉でのように「いまある最高のものを、さらにより良いものに」するためでした。

彼はまず、ドコービルのレイアウトをもとに2気筒の10H.P.車を3台製作しました。この新しい方向性が会社を救うと信じていたのが彼だけだったというのは、彼の執着心と自信を示すもうひとつの例です。もう一つ重要なことは、デザインと製造における細部へのこだわりと、分析後の部品の継続的な見直しによって、彼が亡くなるまで使い続ける生産のひな型が確立されたことでした。

これら最初のお手本に続き、3気筒15H.P.、4気筒20H.P.、6気筒30H.P.が作られ、いずれも自動車のデザインに大きな進歩をもたらしました。ロールス・ロイスの創設から2年後の1906年、社長のクロード・ジョンソンはロイスを説得し、「ワンモデル」ポリシーを採用させました。ロイスはこれに応じて、40/50H.P.「シルバー・ゴースト」をデザインしました。この車は、当然のように「世界一の車」という不朽の名声を獲得しました。

シルバー・ゴーストは、科学的な分析で信頼できるデータが得られるようになるずっと以前から、ロイスが部品に適切な材料を使うことができていたことを証明しています。また、流体の性質が速度によって変化することを解明し、それに基づいて3つのジェットを備えたシルバー・ゴーストのキャブレターを設計しました。これらのジェットは、「フラットスポット」をなくすように異なるスロットル開度で作動します。

ホーム&アウェイ
1906年、マンチェスターにあるロールス・ロイスのクック・ストリート工場は、急速に拡大する自動車生産にもはや対応できないことが明らかになりました。ロールス・ロイスは、ダービーのナイチンゲール・ロードに用地を取得し、ロイスは、新たに専用工場の建屋の設計と監督を行いました。彼は、通常の業務に加え、この巨大で技術的に複雑な仕事を引き受け、自分自身はもちろん、関係者全員にいつもの厳格な基準を要求しました。

絶え間ない仕事の量とペースのため、1911年にロイスが2度目の深刻な体調不良に見舞われたのも当然でした。再び休養するよう勧められ、夏から秋にかけては、ジョンソンの運転でエジプトまでの長距離ドライブに出かけました。その帰路、南仏に立ち寄ったロイスは、ニース近郊のル・カナデルという小さな集落を大いに気に入りました。実行力のあるジョンソンは、一区画の土地を購入し、ロイスのための新居と、来訪する製図技師や助手のための小さな別荘を建てさせました。ロイスも当然、近くのホテルを拠点に、この建築工事に強い関心を寄せていました。

しかし、彼の健康状態は依然として脆弱でした。その後、再発により英国で緊急手術が行われた後は、完成した家に戻って療養していました。彼は残りの人生を(非常に賢明にも)冬はル・カナデルで、夏は南イングランドで過ごしました。

1917年からは、サセックス沿岸のウエスト・ウィッタリング村にある18世紀の家、エルムステッドを英国での住まいとしていました。ここは、グッドウッドの現在のホーム・オブ・ロールス・ロイスからわずか8マイルしか離れていません。エルムステッドの住まいには隣接する土地もあり、ロイスはそこで長年の夢だった果樹栽培を再開しました。当然ながら、彼はこの活動にも完璧さを求め、農業や園芸の多くの面ですぐに第一人者となりました。

エルムステッドでの家庭生活は、他人の些細な行動にも目を配る完璧主義的な彼の性質をさらに浮き彫りにしています。例えば、コック志望の人は、ジャガイモを「正しい」方法で茹でた場合にのみ採用されました。クック・ストリート工場の不運な労働者が、ほうきの使い方を叱られ指導されたときのように。

偉大な遺産
設計するのが車の部品であろうと航空機のエンジンであろうと、ロイスの完璧さへの探求は衰えることがありませんでした。もっとも、実際にはそれが達成不可能であることを認めていました。彼は、製図室のスタッフに「消せ、変えろ、改善しろ、改良しろ」と繰り返し唱え、常に改善と開発を続けることで、いくつもの偉大な技術的功績が生み出されました。 彼の指揮の下、1927年に作られたバザード航空エンジンは、最初、825馬力でしたが、わずか4年でシュナイダー・トロフィーを獲得した「R」エンジンに生まれ変わり、最終型では2,783馬力を発揮するまでになりました。また、V12エンジンの概略設計は、彼の死から3年後の1936年のファントム3に、ほぼそのまま受け継がれました。本能的で直感的な技術者であった彼は、「正しく見えるものは、おそらく正しい」と固く信じていました。目分量で部品を見極める彼の非凡な才能は、彼の技量が間違っていないことを何度も証明しました。

ロイスは働き過ぎる傾向があり、しばしば健康を犠牲にしましたが、それは、完璧さの探求の現れであり、苦難と逆境の中で鍛え上げられた完遂の意志の現れでした。彼は、非常に意欲的で、執念深いとも言える人でした。多くの挫折や不幸を乗り越え、几帳面な技術者の目、探究心、そして厳しい職業倫理を人生のあらゆる面に取り入れました。そして、彼の信念と伝説は、彼の誕生から160年経った今でも、彼の名を冠した会社を形づくり、影響を与えて続けています。

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