発表のポイント:
- 生体の仕組みをコンピュータ上で再現する「バイオデジタルツイン」実現に向けた基礎研究の一環として、細胞から組織が形成される過程において、目的とする構造が形成されるための細胞間の相互作用を求める研究を進めています。
- 今回考案した技術は、機械学習により「逆代理モデル」を獲得して用いることで、従来よりも高速に、形成済の構造から細胞間相互作用を直接推定することを可能にします。
- 本技術は今後、「バイオデジタルツイン」の研究開発に活用されます。臓器中の組織形成のメカニズムの解明や、再生医療などへの応用が期待されているiPS細胞からの人工細胞組織(オルガノイド)の作成における構造の制御などへの貢献が期待されます。
NTT株式会社(本社:東京都千代田区、代表取締役社長:島田 明、以下「NTT」)は、複数種類の細胞からなる組織の構造に対し、その形成過程での細胞間の相互作用を推定する技術を考案しました。これまでNTTは、バイオメディカル分野の基礎研究に取り組んできており、その一環として生体の仕組みをコンピュータ上で再現する「バイオデジタルツイン」の実現をめざしています※1。体内の組織は、複数種類の細胞が相互作用しながら自己組織化することで形成されます。そのため、組織形成の仕組みを理解するには、細胞間の相互作用がどのようなものかを明らかにすることが重要ですが、従来、組織構造から細胞間相互作用を推定するには、多くの実験や計算が必要とされていました。本研究では、機械学習を用いた逆代理モデル※2※3を開発し、形成済の構造から相互作用を直接推定できる手法を考案しました。
本技術は、NTTが進めるバイオデジタルツインの中核技術として活用される予定です。臓器における組織形成機構の理解や、再生医療への応用が期待されるiPS細胞※4由来の人工組織(オルガノイド※5)の構造制御などへの貢献が期待されます。
本研究成果は、2026年5月20日~22日に開催する、「コミュニケーション科学基礎研究所オープンハウス2026」(*)に出展します。
(*) コミュニケーション科学基礎研究所オープンハウス2026
https://www.kecl.ntt.co.jp/openhouse/2026/
図1 細胞パターンから細胞間の相互作用を直接求めることに成功
1.背景
NTTは、ICTで医療の未来を創造することをめざした研究開発を進めています。その一環として、「バイオデジタルツイン」によって生体の仕組みをコンピュータ上で再現するために、さまざまな臓器や組織などの仕組みを解明する基礎研究に取り組んでいます。
臓器を構成する組織中には血管、筋肉、神経などいろいろな種類の細胞が存在し、それらが適切に連携することで私たちが生きていくための機能を実現しています。近年、人工多能性幹細胞(iPS)細胞の技術の発達により、組織を構成する様々な細胞を人工的に作り出すことができるようになり、それらの細胞を用いた組織(オルガノイド)の作成の試みも盛んになってきました。しかし現在、iPS細胞から作り上げることができる組織の機能が実際の組織のものとは異なる場合があるという問題があります。この原因の一つとして、生体と同等の組織の構造(細胞パターン)を再現できておらず、細胞同士が必ずしも適切に連携できていない点が指摘されています。もし、目標となる細胞パターンの実現方法を特定することが出来れば、生体により近い機能を有するオルガノイドの作成につながり、再生医療などへの応用の道が広がると考えられます。
生体において、細胞パターンは特定の種類の細胞同士で発生する接着や反発などの相互作用により発生することが知られており、このような相互作用は実験的にも制御が可能になりつつあります。本研究では、任意の細胞パターンからそれを実現する細胞間の相互作用を直接推定する「逆代理モデル」と、細胞の確率的な発生や消失などに対応した「隣接構造のマルチスケール特徴量化」を組み合わせ、相互作用を直接推定する方法を考案しました。これにより、細胞パターンごとに試行錯誤による探索を行う必要がなくなり、実験やシミュレーションに要する時間を大幅に削減できることが期待されます(図1)。
2.技術のポイント
特定の細胞パターンを生成する細胞間の相互作用は、細胞をエージェントとしたシミュレーションモデルである、エージェントベーストモデル(ABM※6)のパラメータとして定義できます。このようなシミュレーションモデルは、原因となる相互作用のパラメータを入力とし、結果として生成される細胞パターンを出力するという、実際の現象と同じ方向の処理を行うため、順モデルと呼ばれます。一般に、順モデルの計算には多数の細胞の相互作用を計算する必要があるため、多くの計算時間を要します。さらに、目的の細胞パターンを生成できる相互作用を探索するためには、パラメータを様々に変えて計算を繰り返し行う必要があり、更に膨大な計算時間がかかります。この問題を解決するため、本技術では次の二つのポイントにより、細胞パターンから相互作用のパラメータを推定する逆代理モデルを構成し、繰り返し計算を不要にしました。
①
細胞の隣接構造のマルチスケール特徴量化
同じ相互作用であっても、細胞の確率的な発生や消失などのため、細胞の数や位置が変化し、同じ細胞パターンになるとは限りません。また、近く(局所)の細胞の並び方(隣接構造)が重要であるのと同時に、少し離れた範囲(大域)の隣接構造も組織の機能の実現には重要です。
本技術では、「パーシステントホモロジー」※7と呼ばれる考え方に基づき、各種類の細胞の位置座標から、特定の解像度(注目スケール:細胞位置を中心に設定した一定の半径の球)で現れる特徴的な形(塊・境界・穴のような構造)の個数を列挙することにより、細胞の確率的な数や位置の変動に影響されにくいマルチスケールの隣接構造の特徴を抽出する方法を採用しました(図2)。
図2マルチスケール特徴量化のイメージ
②
逆代理モデルの構築
ここで言う代理モデルとは、計算コストが高いシミュレーションを代替する、比較的低い計算コストで実行可能な機械学習モデルのことです。本技術では、前記の順モデルとは逆方向の、細胞パターンを入力として、その原因となった細胞間の相互作用のパラメータを出力するモデル(逆代理モデル)を用います。
逆代理モデルは図3に示す手順で構成されます。まず、「学習用データ生成フェーズ」において、個々の細胞をエージェントとして表現したエージェントベーストモデル(ABM)によるシミュレーションを、相互作用のパラメータを様々に変えながら行います。これにより、それぞれの相互作用のパラメータに対応する、細胞パターンと特徴量の組が得られます。これが逆代理モデルを学習するためのデータセットとなります。次に、「機械学習フェーズ」において、このデータセットを用いて多層パーセプトロン※8(MLP)を訓練し、前記のシミュレーションの結果から相互作用のパラメータを推定する逆代理モデルを構成します。このような操作により、繰り返しの探索を必要としない、相互作用の直接推論が実現されました。
図3逆代理モデル構築の手順。学習用データを生成するフェーズと、
それをもとに逆代理モデルを機械学習するフェーズの二段階で構成される。
3.適用例
本手法をゼブラフィッシュ※9の模様形成に適用した例を図4に示します。まず、逆代理モデルの精度を評価するため、シミュレーションにあらかじめ与えた相互作用のパラメータ(目標値)と、本手法で推定した相互作用(推定値)を比較しました(図4(1))。ここでは、パラメータとして既知の値を設定してシミュレーションを実行し、得られた細胞パターンを入力として相互作用のパラメータを推定します。その推定値と、設定した目標値とを比較することで、推定値の正確さを評価できます。その結果、ベースラインとなる既存手法(点群の分類に用いられる既存の機械学習手法)よりも高精度であることが確認できました。
次に、推定された相互作用パラメータにより生成される細胞パターンの視覚的な再現性を評価しました(図4(2))。その結果、既存法に比べて、提案法に基づき生成された細胞パターンは、目標として設定した細胞パターンとの視覚的な類似性(縞や、水玉模様の大きさなどの再現性)が高いことが分かりました。
提案手法において1回当たりの推定に要する時間はノートパソコン上で数秒程度であり、順方向のシミュレーションを反復してパラメータを探索する方法(仮に100回の反復を行った場合、所要時間は数時間程度)に比べ、はるかに短時間で推定結果を得ることができました。
図4提案法およびベースライン手法の実験結果
(1)逆代理モデルの精度評価。推定誤差、相関係数共に既存法よりも提案法が優れている。
(2)細胞パターンの再現性評価。提案法は目標の細胞パターンの特徴をよりよく再現することに成功している。
4.今後の展開
本技術により、組織形成の要因を高速に分析することが可能になるため、様々な生体組織における細胞パターンの形成機序の解明に役立つと考えられます。なお、今回例示したゼブラフィッシュの縞や水玉などの模様は、黄色と黒色の2種類の細胞が平面的に配置される比較的単純な構造でモデル化されていますが、人体を構成する組織では、より多くの種類の細胞が複雑な立体構造をなす場合が多く見られます。今後、より複雑な対象での検証を進めるとともに、心臓、肝臓、網膜などのオルガノイドに適用することで、目標とする組織構造の再現への貢献をめざします。
【用語解説】
※1 NTTが取り組むバイオメディカル研究: NTTバイオメディカル情報科学研究センタは、“ICTで医療の未来を創造する”ことをミッションとし、一人ひとりに最適化された精緻な医療・ヘルスケア(プレシジョンメディシン)の実現に貢献すべく、研究開発を推進しています。
https://www.rd.ntt/bmc/
※2 代理モデル: 計算コストの大きいシミュレーションモデルを機械学習によって計算コストの小さい人工ニューラルネットワークなどのモデルに置き換えたもの。
※3 逆代理モデル: 代理モデルにおいて、通常のシミュレーションの流れとは逆にシミュレーション結果からシミュレーション条件を予測する、人工ニューラルネットワークなどを用いて構成されたモデル。
※4 iPS細胞: 血液や皮膚の細胞などから人工的に作られる幹細胞。幹細胞とは自己複製(同じ種類の細胞を増やすこと)と分化(別の種類の細胞に変化すること)の能力を持つ細胞のこと。
※5 オルガノイド: iPS細胞などの幹細胞を培養、分化させることで作られる三次元多細胞組織。
※6 ABM: Agent-Based Model。自律的に動く主体(エージェント)同士の相互作用や外部からの影響に基づきエージェント集団のふるまいのシミュレーションを行うモデル。細胞パターンにおいては、細胞をエージェントとみなしその相互作用から生成される細胞パターンをシミュレーションする。
※7 パーシステントホモロジー: データ(点群)の形状や穴(空隙)の発生・消滅を異なる拡大率で解析し、その持続性を定量化する方法の一つ。データのもつ構造の解析に用いられる。
※8 多層パーセプトロン: Multi-Layer Perceptron。基本的な人工ニューラルネットワークの形態の一つで、入力に応じて発火する人工ニューロンを層状に配置したものを多層に重ねた構成のもの。
※9 ゼブラフィッシュ: 学名 Danio Rerio。淡水に生息する体長5センチメートルほどの小型の魚。生物学では脊椎動物のモデル生物としてよく用いられる。模様に変異がある品種が存在する。