建設中の本社社屋。1972年2月14日、札幌オリンピック閉会式の翌日に当社は本社を磐田市に移転した
サッカーを通じて「地域との絆」を
「都市対抗野球で、浜松市民の皆さんが『ヤマハ! ヤマハ!』と日本楽器製造(現・ヤマハ株式会社)に大きな声援を送っている姿を見て、当社もこの新しいホームタウンに根を張って、市民の皆さんから応援していただけるような存在になっていきたいと考えた。それがサッカー部(現・ジュビロ磐田)創部の趣意となりました」
「ジュビロの生みの親」として知られる故・荒田忠典さん(当社・元副社長)は、生前、サッカー部創部の背景についてそう語りました。
1955年に現在の浜松市浜北区で創立したヤマハ発動機が、本社を磐田市に移転したのは1972年2月のこと。18万平方メートルという広大な敷地は、その時代で言うところの「後楽園球場40個ぶん」。輸出ドライブを背景に「生産60万台体制を築く」ことを目指し、手つかずの広大な土地、確かなものづくりに欠かせない堅牢な地盤を持つ磐田の地を、「真の国際(グローバル)企業に向けてチャレンジするための本拠地」として位置づけての移転でした。
ヤマハスタジアムで行われたC大阪戦で、“ARIGATO, IWATA”のメッセージTシャツを着て入場したジュビロの選手たち
©JUBILO IWATA
ヤマハスタジアムで「感謝」のセレモニー
9月17日、ヤマハスタジアムで開かれたJ1リーグ第30節・対セレッソ大阪戦。当社の日髙祥博社長は、キックオフ前に「本社移転50周年、サッカー部創部50周年という節目にあたり、あらためて磐田市、そして市民の皆様にお礼を申し上げます」と挨拶。選手たちが“ARIGATO, IWATA”とプリントされたTシャツを着てピッチに姿を現すと、もう一度、スタンドに向けて頭を下げ、キックインのセレモニーを行いました。
1972年当時、7,000人ほどだった従業員数は連結で5万人を超え、約1,200億円だった売上高は2兆円(連結)に手が届くところまできました。何より本社移転の大きな原動力となったグローバル化という視点でも、海外連結子会社は4社から105社まで拡大し、世界180を超える国と地域でビジネスを展開するようになっています。ヤマハスタジアムでのセレモニーは、そうした成長・発展をホームタウンから支えてくださった皆様に、あらためて感謝の意を示したものでした。
前述の荒田さんの話は、もう少し続きます。
「スポーツで地域に貢献し、交流をしていきたいという話になったのは役員昼食会の席でした。野球やラグビーなども候補にあがりましたが、最終的には全員一致でサッカーに決定しました。真の国際企業に向けて本格的なスタートを切ろうとしているこの会社に、サッカーというワールドスポーツの躍動感がとても似合うように思えたからです」
現在、J1残留に向けて正念場を迎えているジュビロ。この日は終盤の反撃で2点のビハインドを追いつく執念のドローゲームとなりました。
本社移転前の1966年に磐田第1工場を建設。操業を開始したばかりの工場から出荷されるのは、
自動車エンジン事業の起点となった「トヨタ2000GT」
■広報担当者より
当社が磐田市に本社を移転した当時、太平洋ベルト地帯構想で注目を集めていたこの丘陵地帯には、時を同じくしていくつもの企業が工場を建設しました。磐田原台地の開発は東名高速の全線開通でさらに加速したそうですが、当時はまだ建物もまばらで、 現在のヤマハスタジアムのピッチのあたりには馬が放牧されていたそうです。