脳が酸性に傾く精神・神経疾患モデル動物を多数発見
―多様な疾患にまたがる認知機能障害の脳内メカニズムの解明に前進―
藤田医科大学の宮川剛教授、萩原英雄講師らの研究グループは、知的障害、自閉症、統合失調症、双極性障害、うつ病、アルツハイマー病などの精神・神経疾患モデルを含む、実に109種類にも及ぶモデル動物を対象に大規模な脳の代謝解析を実施しました。本研究では、脳のpH(ピーエイチ、あるいはペーハー)注1および乳酸注2量が多くの疾患モデル動物で共通して変化することが確認され、これらの変化は特に認知機能障害と関連が深いことが示されました。この発見によって、異なる疾患における認知機能障害に対する共通の脳内メカニズムの理解を深めることが期待されます。本研究は、群馬大学の畑田出穂教授、Jena University HospitalのAnja Urbach博士、富山大学の高雄啓三教授、金沢医科大学の西園啓文講師、Northwestern UniversityのHerbert Meltzer 教授、University of Strasbourg・National Centre for Scientific ResearchのIpek Yalcin博士、Institute for Basic ScienceのBong-Kiun Kaang教授、茨城大学の豊田淳教授、University of EdinburghのSeth Grant教授ら、世界7カ国の105の研究室、合計131名の研究者による国際共同研究として行われました。この研究成果は、日本時間2024年3月26日17時に英国の生命科学・生物医科学分野の学術雑誌「eLife」のオンライン版で公開されます。論文URL: https://doi.org/10.7554/eLife.89376.3
<研究成果のポイント>
- 著名な精神・神経疾患モデルを含む109種類のモデル動物のうち約30%において、脳のpHと乳酸量に変化が見られることを発見。多様な精神・神経疾患モデル動物を系統的に解析した研究としては世界初。
- 作業記憶と呼ばれる認知機能の低下が、脳のpHの低下および乳酸量の増加と強く相関していることを確認。
- 脳のpHおよび乳酸量の変化が、認知機能障害を伴うさまざまな精神・神経疾患に共通する現象であることを示唆。既存の疾患分類の枠組みを超えた、疾患横断的な認知機能障害の病態研究の新たな展開が期待。
<背 景>
脳活動のエネルギー源として主にグルコースが利用されます。これまでの研究から、統合失調症注3や双極性障害注4などの精神・神経疾患の患者では、グルコースの分解によりエネルギーを産生する過程(代謝注5)に異常があることが示唆されています。これらの疾患では、グルコースが代謝されてできる酸性の代謝物である乳酸が増加し、それに伴い脳のpHが低下すると考えられています。しかし、これらの脳内の変化についてはいくつかの論争があります。すなわち、これらの変化は、疾患そのものに由来する病態に関連した現象なのか、あるいは、疾患そのものからではなく、抗精神病薬の服用など二次的な要因(混交要因)から生じた見かけ上の現象なのか(参考文献1)、という議論です。ヒト死後脳標本を用いた研究においては、このような要因を避けることは非常に困難です。しかし、モデル動物を活用すれば、混交要因となり得る各種要因を厳密に制御した状態で検証することができるため、混交要因に関わる論争を理解するための適切な代替手段であると私たちは考えました。
私たちは以前、統合失調症/発達障害、双極性障害、自閉症注6のマウスモデル5種類に共通して、脳のpHが低下し乳酸濃度が増加していることを見出し、これらの変化は疾患の病態に関連した現象であると提唱しました(参考文献2)。しかし、その他の精神・神経疾患の動物モデルにおける脳のpHと乳酸についての研究はまだ限定的であり、このような脳内の変化が一般性のある現象なのかは不明でした。さらに、脳のpHおよび乳酸量の変化がどのような行動異常と関連しているのかも明確ではありませんでした。
<研究手法・研究成果>
精神・神経疾患モデル動物は世界中に多種多様なものが存在します。私たちは、世界7カ国・計131名の研究者が参画する共同研究により、遺伝子改変やストレス負荷などを施した109種類の動物モデル、合計2,294匹のマウス、ラット、ヒヨコの全脳サンプルを収集し、pHおよび乳酸量を測定しました。この包括的な解析により、統合失調症/発達障害や双極性障害、自閉症のモデルに加えて、うつ病、てんかん、アルツハイマー病のモデルなど、多様な疾患モデル動物において、脳のpH・乳酸量の変化が共通の特徴であることを明らかにしました。
主な結果
- 疾患間で共通する現象:109種類のモデル動物の約30%で脳のpHおよび乳酸量に有意な変化が見られました(図1)。これらの大部分では、pHが低下し乳酸量が増加していました。これは多くの疾患動物モデルで共通して脳のエネルギー代謝の異常が生じていることを示唆しています。
- 原因は環境にも:健常な動物に心理的ストレスを与えたうつ病モデル(マウスとヒヨコ)や、うつ病の併発リスクが高い糖尿病や腸炎を誘発したモデルマウスでも脳のpH低下・乳酸量増加が見られました。これは、様々な後天的な環境要因が原因となる可能性を示しています(図2)。
- 統合失調症/発達障害への示唆:以前に私たちが解析した以外の統合失調症/発達障害のモデルマウスでも脳のpH低下と乳酸量増加が確認されました。
- 認知機能との関連:109種類のモデル動物うち、最初にデータを取得した65種類を探索群とし、乳酸データと行動試験データを統合した解析を行いました。これにより、脳の乳酸量変化が行動レベルでの機能発揮に関連していることが示唆されました(図3)。特に作業記憶注7の低下が乳酸量の増加と関連していることが明らかになりました(図4)。
- 再現性確認で強固な証拠:残りの44種類のモデル動物を確認群とした独立した研究で、脳の乳酸量増加と作業記憶の低下との関連を再確認しました。
- 自閉症の複雑性:自閉症モデルマウスにおいては、pH低下と乳酸量の増加を示すモデルと、それとは逆のpH増加・乳酸量低下を示すモデルが複数見つかりました(図1)。これは、個人によって症状が大きく異なる自閉症における患者サブグループ(個人差)に対応している可能性が考えられます。
結果の意義
この研究は、精神・神経疾患の動物モデルにおける脳のpHおよび乳酸量を包括的に評価した初の大規模研究です。得られた知見は、認知機能障害を伴う様々な疾患に共通する脳内の特性を理解する新たな手がかりとなる可能性を持ち、既存の疾患分類の枠組みを超える影響をもたらすかもしれません。
<今後の展開>
本研究の成果は、神経科学や精神医学の分野における新たな研究方針や精神・神経疾患の治療戦略の開発に貢献することが期待されます。様々なモデル動物は、疾患の特定の症状や特定の患者サブグループに対応する可能性があります。各モデル動物の脳のpHおよび乳酸量の変化に焦点を当て、それが生じる脳領域を特定し、その変化の詳細なメカニズムを解明することで、対応する症状や状態における脳病態の理解が深まることが期待されます。また、乳酸およびpHの実体である水素イオン(H+)は、様々なタンパク質に結合してその構造や活性を調節するなどの機能を持っていますが、疾患におけるpHや乳酸量の変化が病態や症状に対して与える影響が良いのか悪いのかはまだ明らかではありません。これらの変化の機能的な意味を解明することで、将来、脳の代謝変化という生物学的特徴に基づく新たな治療法の開発が進むことが期待されます。
本研究の一部は、MEXT/JSPS科学研究費補助金(JP16H06462、JPMXP0618217663、JP20H00522、JP16H06276、JP18K07378、JP21K19314)、AMED脳科学研究戦略推進プログラム(JP18dm0107101)による支援を受けて行われました。本発表に関連し開示すべき利益相反関係にある企業等はありません。
本プレスリリースの内容はモデル動物を用いた基礎研究での研究成果についてであり、これがすぐに臨床応用できるわけではありません。また、脳のpHや乳酸量を上げる、あるいは下げるような方法で疾患が改善するということを証明しているわけではありません。
<用語解説>
注1. pH(ピーエイチ、あるいはペーハー):水溶液中の水素イオン(H+)濃度を表す指標。通常0〜14の範囲の数値で表され、7を中性とし、7より小さいと酸性を、7より大きいとアルカリ性を表します。正常ヒト血液のpHは7.38〜7.42に保たれています。細胞内外ではpHに差があり、細胞外に比べ、細胞内はやや酸性(pH 7.0〜7.4)に保たれています。今回の研究では、すりつぶした脳を用いて、細胞内と細胞外を平均化したpHを測定しています。
注2. 乳酸:脳や筋肉などにおいて、細胞の活動のためのエネルギーを得るためにグルコース(ブドウ糖)やグリコーゲンなどの糖が分解されてできる生成物。乳酸自体もエネルギー源として利用されます。
注3. 統合失調症:陽性症状(幻覚や妄想)、陰性症状(無関心、意欲の低下、社会性の低下)認知障害などが認められる精神疾患。
注4. 双極性障害:躁状態とうつ状態の二つの病相が周期的に交代して現れる精神疾患。日本人の生涯有病率は0.7%程度とされています。
注5. 代謝:生体内で生じる化学反応の総称。グルコースからエネルギーを取り出して乳酸が生成される過程も代謝の一つです。
注6. 自閉症:コミュニケーション異常や固執性などを主徴とする精神疾患。全人口の約2%が発症すると言われています。
注7. 作業記憶:短期的な情報を一時的に保持し、それを活用して課題を実行するための脳の機能の一部。作業記憶は私たちが短時間に情報を処理し、それを使って様々な活動を行うのに役立つ脳の機能です。
<参考文献>
1. Halim ND, et al (2008). Increased lactate levels and reduced pH in postmortem brains of schizophrenics: medication confounds. Journal of Neuroscience Methods 169(1): 208–213.
2. Hagihara H, et al (2018). Decreased Brain pH as a Shared Endophenotype of Psychiatric Disorders. Neuropsychopharmacology 43(3): 459–468.
<発表論文>
タイトル:Large-scale animal model study uncovers altered brain pH and lactate levels as a transdiagnostic endophenotype of neuropsychiatric disorders involving cognitive impairment
雑誌名(巻号):eLife (12:RP89376)
著者名:Hideo Hagihara, Hirotaka Shoji, Satoko Hattori, Giovanni Sala, Yoshihiro Takamiya, Mika Tanaka, Masafumi Ihara, Mihiro Shibutani, Izuho Hatada, Kei Hori, Mikio Hoshino, Akito Nakao, Yasuo Mori, Shigeo Okabe, Masayuki Matsushita, Anja Urbach, Yuta Katayama, Akinobu Matsumoto, Keiichi I. Nakayama, Shota Katori, Takuya Sato, Takuji Iwasato, Haruko Nakamura, Yoshio Goshima, Matthieu Raveau, Tetsuya Tatsukawa, Kazuhiro Yamakawa, Noriko Takahashi, Haruo Kasai, Johji Inazawa, Ikuo Nobuhisa, Tetsushi Kagawa, Tetsuya Taga, Mohamed Darwish, Hirofumi Nishizono, Keizo Takao, Kiran Sapkota, Kazutoshi Nakazawa, Tsuyoshi Takagi, Haruki Fujisawa, Yoshihisa Sugimura, Kyosuke Yamanishi, Lakshmi Rajagopal, Nanette Deneen Hannah, Herbert Y. Meltzer, Tohru Yamamoto, Shuji Wakatsuki, Toshiyuki Araki, Katsuhiko Tabuchi, Tadahiro Numakawa, Hiroshi Kunugi, Freesia L. Huang, Atsuko Hayata-Takano, Hitoshi Hashimoto, Kota Tamada, Toru Takumi, Takaoki Kasahara, Tadafumi Kato, Isabella A. Graef, Gerald R. Crabtree, Nozomi Asaoka, Hikari Hatakama, Shuji Kaneko, Takao Kohno, Mitsuharu Hattori, Yoshio Hoshiba, Ryuhei Miyake, Kisho Obi-Nagata, Akiko Hayashi-Takagi, Léa J. Becker, Ipek Yalcin, Yoko Hagino, Hiroko Kotajima-Murakami, Yuki Moriya, Kazutaka Ikeda, Hyopil Kim, Bong-Kiun Kaang, Hikari Otabi, Yuta Yoshida, Atsushi Toyoda, Noboru H. Komiyama, Seth G. N. Grant, Michiru Ida-Eto, Masaaki Narita, Ken-ichi Matsumoto, Emiko Okuda-Ashitaka, Iori Ohmori, Tadayuki Shimada, Kanato Yamagata, Hiroshi Ageta, Kunihiro Tsuchida, Kaoru Inokuchi, Takayuki Sassa, Akio Kihara, Motoaki Fukasawa, Nobuteru Usuda, Tayo Katano, Teruyuki Tanaka, Yoshihiro Yoshihara, Michihiro Igarashi, Takashi Hayashi, Kaori Ishikawa, Satoshi Yamamoto, Naoya Nishimura, Kazuto Nakada, Shinji Hirotsune, Kiyoshi Egawa, Kazuma Higashisaka, Yasuo Tsutsumi, Shoko Nishihara, Noriyuki Sugo, Takeshi Yagi, Naoto Ueno, Tomomi Yamamoto, Yoshihiro Kubo, Rie Ohashi, Nobuyuki Shiina, Kimiko Shimizu, Sayaka Higo-Yamamoto, Katsutaka Oishi, Hisashi Mori, Tamio Furuse, Masaru Tamura, Hisashi Shirakawa, Daiki X. Sato, Yukiko U. Inoue, Takayoshi Inoue, Yuriko Komine, Tetsuo Yamamori, Kenji Sakimura, Tsuyoshi Miyakawa
DOI番号:https://doi.org/10.7554/eLife.89376.3
著者所属研究機関:藤田医科大学、国立循環器病研究センター、群馬大学、国立精神・神経医療研究センター、京都大学、東京大学、琉球大学、Jena University Hospital(ドイツ)、九州大学、国立遺伝学研究所、横浜市立大学、理化学研究所、名古屋市立大学、北里大学、東京医科歯科大学、Cairo University(エジプト)、富山大学、金沢医科大学、Southern Research(米国)、愛知県医療療育総合センター、兵庫医科大学、Northwestern University(米国)、香川大学、信州大学、帝京大学、National Institute of Health(米国)、大阪大学、神戸大学、Carl von Ossietzky University of Oldenburg(ドイツ)、順天堂大学、Stanford University(米国)、京都府立医科大学、University of Strasbourg(フランス)、東京都医学総合研究所、Seoul National University(韓国)、Johns Hopkins School of Medicine(米国)、Institute for Basic Science(韓国)、茨城大学、東京農工大学、University of Edinburgh(英国)、三重大学、島根大学、大阪工業大学、岡山大学、北海道大学、関西医科大学、新潟大学、産業技術総合研究所、筑波大学、武田薬品工業株式会社、大阪市立大学、創価大学、自然科学研究機構基礎生物学研究所、総合研究大学院大学、自然科学研究機構生命創成探究センター、自然科学研究機構生理学研究所、東京理科大学、東北大学